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2019年07月19日

祈りについて

こんにちわ
オークション代行(ヤフオク代行)リボンハムスターです。

令和になっても連日悪いニュースが頻繁にあり、社会の状況に辟易としています。

京都アニメーション放火事件というとてつもなく、規模の大きな虐殺事件がありました。

事件の動機とか、詳細はわかりませんが、あまりにも多くの事件、命を奪う事に対する暴挙に憤りが消えません。

こういう社会や事件が起きる理由はなんなのでしょう。

例えば、犯罪史に名を残したいという、歪んだ承認欲求もあるかもしれません。

凶悪犯罪を無くす事はどうしたらできるのでしょうか。

例えば、自分の死が怖く無い人で、失う物が無い人で、歪んだ欲求があるとこのような事をしてしまうのではないでしょうか。

死を恐れない人だと、どんなに刑罰を重くしても、自死してしまえば、抑制できないと思います。

自殺者数が多い状況で、死ぬ前に他人を巻き込んでと考える人もいるかもしれません。

今回は可燃物(ガソリン?)を使用しての犯行だったようですが、手軽に手に入るものでこのような暴挙が行えるのは対策が難しいと思います。

悪い事をすると、地獄に落ちるという思想が薄れている為ではないでしょうか。

死んだ後、悪い事をしたら、地獄に落とされるという教えを、小さい頃から教わっていれば、悪い事などするでしょうか。

信仰心的な欠如も、最近の事件の原因ではないでしょうか。

無宗教の人が多い日本で、宗教を信仰しましょうと言っているわけでは無いのです。現実社会以外の概念が必要なのではと思っているのです。

連続動物虐待犯も、何故そのような事をするのでしょう。死後地獄に落ち苦しむビジョンが見えれば、そのような悪い事をやめようと思うはずです。

罪を償ったり、罪滅ぼしをしたりしようと思うはずです。

犯罪が増えているのは、心の乱れではないでしょうか。神や仏、地獄とかそういったものへの畏怖とかの欠如もあるのでしょうか。

普通の人なら、刑務所での刑罰だけでも充分、抑制になると思いますが、死を覚悟した人には何が堪えるのでしょうか。

戦争では、命を奪う事が繰り返されてきました。

それは絶対的な命令だったり、生きる為に仕方ない事だったかもしれません。

しかし、最近の犯罪は、それとは違うのではないでしょうか。誰かに絶対的な命令されたわけでもなく、生きる為でも無いでしょう。

あまりにも短絡的というか、後先考えないというか、感情優先というか。

今回の京都アニメーションの犠牲者の方は、あまりにも無念だったと思います。

この事件だけでなく、犠牲者の方は、ほとんどの方が無念だったと思いますが、1人の犯人の凶行に巻き込まれて、いきなり命を奪われて、とんでもない犯行です。

どうしたら、犯罪や事件が減るでしょうか。

考えたアイディアの一つとしては、

・義務教育中に、刑務所見学とか、事件への後悔とか、遺族の声について、知る授業を行う。

(刑務所に入りたくないと思わせるような環境や体験談を前もって知っておく)
(修学旅行で、広島に行き、原爆とか戦争反対を身につけるように、刑務所見学も犯罪への抑止力の浸透になると思います。)
(プログラミング授業とか、数学とか、理科とか、既存の勉強だけでなく、心を育てる事も、未成年者の自殺者数減少や、やがての犯罪数減少になると思います。)

スポーツでも、勉強でも現状の、競い合う事重視の社会で本当に良いのでしょうか。

・暴力的な内容の作品についての閲覧年齢制限を上げる。

(とくにネットでは気軽に入手できる状況の為、若年から、反社会的な作品の影響を受けると、その人だけならず、社会的にも、それらが身近になり、それが犯罪に現われている気がします。)

・SNSやライン等の利用年齢制限を上げる

(SNSはイジメや犯罪の温床とかにもなっていますし、情報が広まるのも早いと思います。そういった事で、イジメにもつながりますし、ブロックとか、悪口とかで心を傷つけ合ったりする社会が、心の孤立や、世の中を憎んだり、冷たくさせているかもしれません。)

とりあえず、他にもいろいろと思いつくとは思いますが、あまり締め付けすぎても、民衆の力が弱まる気もするのが難しい所です。

どんなにアイディアを出しても、その結果がどうなるか誰も知らない事なので、知ったような事は言えませんが、私の中では、それらが一つの解決策だと思います。

問題は、犯罪だけでなく、戦争とかもありますので、あまり偏りすぎて、昔のような恐怖政治みたいになっても嫌ですし。

長くなりましたが、京都アニメーションの被害者の方だけでなく、全ての善良な被害者の方のご冥福をお祈りいたします。

(と、祈るといっても、私の祈りにそんなに特別な力があるわけでないでしょうし、飾ったような言葉や、社会通念上の形式的でもあり、偽善のような言葉ですし、顔も名前も詳細さえも知らない中で、言葉だけで祈りますなんて言うのもおこがましいですし、表面的なようですし、祈り方もわかりませんが、遺族や社会に向けての印象とか慰みとかの為にも、言葉だけでもお祈りいたします。また犯罪数が減少や皆無になりますよう、願いたいと思います。祈りは難しいですが、願いは持ちやすいです。また亡くなった人は、京都アニメーションの事件だけでないのに、京都アニメーションの人だけご冥福というのも、不公平かもしれませんが、世間を騒がせた出来事として、また他のニュースや出来事を把握していないので、把握している範囲や、心に影響を受けた出来事として、私が、被害者のご冥福とかを祈ったり、願ったりしたところでどうなるわけでもないかもしれませんが、このブログを偶然見かけた方(存命中の方)が、見かけた際に、手向けの言葉になるかもしれませんので、記載したいと思います。祈りも、人によっては、その場だけ、言葉だけ、1時間、1日、24時間、一生、いろいろな祈りや思いの違いはありますが、偽善的だからと、使わないのだと、あまりにも、無機質な印象もあります。
例え、偽善的であっても、手向けの言葉は必要かもしれません。被害者の方がブログに目を通すわけでは無いと思うので、不思議な行為ですが、要するに、誠意や手向け、弔いの気持ちの表れでもあるのでしょうね。

私は、長い間、この祈りとかについて、いまいちわからなくなっていた時期がありました。

しかし今日、ブログを書いているうちに、そういう事かもしれないなと、祈りや、ご冥福をお祈りとかそういった言葉について、自分では納得できた気がします。

例えば、花を手向けるように。
花を手向けたからってどうなるわけでもないかもしれませんが、それが人間らしさなのかもしれません。

それと同じで、顔も名前も知らない人に、祈るという事は、ある意味偽善的に見えたり、パフォーマンスにも見えたりするかもしれませんが、
しかしそれでも、心からなら、それは人間らしさなのかもしれません。

最近、テレビで、アフリカのある村を救った、日本人の青年の話を見ました。

それまではまったく知らない人や存在、出来事でしたが、とても感動しました。

名前は、『タケベ』さんと言うそうです。詳しくは、武部寛則さん。

そのストーリーを見て、感情移入して、感情を打ったわけです。タケベさんは、かなり昔に不慮の事故で亡くなりましたが、私はその番組を見て、かなり前の事なので、別にタケベさんのご冥福とかを祈りはしませんでしたが、アチュア村の人は、今でもタケベさんを弔ったり、タケベ祭りをしているそうです。

それは気持ちの違いなんでしょうね。村人にとっては、タケベさんの存在が今でも大きいのでしょう。テレビを見て感動はしましたし、立派な人だと思いましたが、別に私はタケベさんに祈る事はしませんでした。

それはテレビ番組であり、過去の出来事であり、時間が経過しているからも大きいのかもしれません。

時は心の傷を癒すと言いますし。

私が今回の記事で言いたいのは、犯罪を無くさなければという思い。そして、祈りは、願い、そして思い、まだよくわからない点、そして、

形式的な言葉でも、それは手向けの言葉になり、人の心を感じると共に、偽善的でもあるけど、たとえ、その行為で、偽善者と呼ばれたとしても、花を手向けるような思いは、人間の美しさやと、偽善や弱さも内包しているかもしれないという、自分でも良くわからない状況です。

それだけ人間は弱いのだと思います。

できない事ばかり、祈る事しかできなくても祈りたいから祈るのではないでしょうか。

問題と向き合って祈ってばかりいてもノイローゼになりそうですから、程ほどにとは思いますが、どうせ祈るなら、その祈りが誰かに届いたり、社会を良くしていけるように、とも思います。

なんの為に祈るのでしょうか。悲しむ人が減るように祈るのでしょうか、とりあえず祈るのでしょうか。

私のブログも、このブログを書いたからと、世の中が良くなる可能性なんて殆ど無いでしょうが、それでも、0.0001%の可能性でも、ある意味、祈りのような気持ちで、願いのような気持ちで、書いているのかもしれません。

まとまりの無い文章になりましたし、わざわざブログに書くのも意味があるのか無いのかわかりませんが、とりあえず、気持ちの整理がついていないですが、思った事を書きました。


















posted by ハムたん | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする